高総検レポート No 88

2007年3月17日発行

教育再生会議第1次報告
教育課題について
〜 教育の政治利用が教育現場を荒廃させる 〜

本レポートの内容

  1. 教育の自由はどこに
    教育の自由が失われようとしている。06教基法全体を覆う国家統制色は、「国の教育権」を盛り込む憲法改悪プログラムの具現である。
  2. 教育の政治利用が始まっている
    教育再生会議の国家戦略を考えても教育を考えないありようは、早くも、文科省・地方教育行政との間の軋轢を顕著にしている。
  3. 詰め込み教育への逆行と競争主義・能力主義の強化… 「ゆとり教育の見直し」は、「見直し」どころではなく、詰め込み教育・全国学力調査による競争強要・「選択」の名を冠した能力別階層化である。
  4. 管理教育の復活… 教育再生会議はいじめ問題を利用し、その解決案を示さないまま、規範意識と集団主義のみを提言している。それは、06教基法に則った「公」の強要である。

本レポートは、教育再生会議第1次報告について、「教育内容の改革」に記された教育課題を主体に、批判的検証をおこなったものです。「教員の質の向上」「教育システムの改革」他に記された制度課題については、別途レポート化します。

1.教育の自由はどこに

  1. 憲法改悪は「国の教育権」を目論んでいる。

     「教育の自由」という言葉がある。近代公教育の成立期に、教育に対する教会や国家の独占・干渉を排除し、教育に関する私的選択権と、教育独自の論理に基づく自律的・自主的運営の保障を課題として生じた概念であり、教育に関する私人・団体および教職員・教科書執筆者の裁量権をいう。
     「教育の自由」は、47教基法第10条1項「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである」によって保障されていた*1が、教基法改悪によって、その意義は、大きく後退した。
     06教基法全体を覆う国家統制色は、政府与党による以下の憲法改悪プログラムの具現に他ならない。

    自民党憲法調査会/憲法調査会憲法改正プロジェクトチーム第9回会合
    04年3月11日

    ○議題:国民の権利及び義務について

    ○資料(抜):衆議院議員・衛藤晟一提言3「家族の尊重・保護、教育に関する国家の責任を明記すべきである。」
    [2]教育はこの憲法の前文に掲げられた理念を基本として行われるべきこととともに、学校教育に関する国家の責任を明記すること。
    1. 教育に関する様々な事項のうち、教育権の所在をめぐっては、戦後、家永教科書訴訟等において長期間にわたり激しい論争が繰り広げられてきた。
    2. この問題は、公教育における国の教育権を認めた先の学力テスト事件最高裁判決及び国に教科書検定権を認めた今回の家永訴訟最高裁判決によって一応の決着をみたわけであるが、今後再び混乱が生じないようにするためにも、憲法に学校教育に関する国の責任を明記しておく必要がある。※国家の教育権を認める規定はスペインやドイツの憲法にもある。

    ○論議(抜)岡正宏衆議院議員
     いまの日本国憲法を見ておりますと、あまりにも個人が優先しすぎで、公というものがないがしろになってきている。個人優先、家族を無視する、そして地域社会とか国家というものを考えないような日本人になってきたことを非常に憂えている。夫婦別姓が出てくるような日本になったということは大変情けないことで、家族が基本、家族を大切にして、家庭と家族を守っていくことが、この国を安泰に導いていくもとなんだということを、しっかりと憲法でも位置づけてもらわなければならない。先進国で20歳以下の若い人たちに体を動かす団体活動をさせていないのは日本だけだという話を聞きました。私は徴兵制というところまでは申し上げませんが、少なくとも国防の義務とか奉仕活動の義務というものは若い人たちに義務づけられるような国にしていかなければいけないのではないかと。
    衛藤晟一衆議院議員 
     「家永裁判」で、いろんなことが起こりました。国の教育権を裁判では認めたが、こういうことが起きないように国家の教育権を認める規定は、明確に今度の憲法はしていく必要がある。
    同HP http://www.jimin.jp/jimin/kenpou/index.html より

  2. 政府与党の認識は司法判断を無視した独善である。

     「国の教育権を裁判では認めた」という発言は極めて独善的な認識にもとづく。
     家永教科書裁判においては、97年の最高裁判決で、教科書検定制度は「合憲」とされたが、その根拠は、児童・生徒の批判能力の未発達、教育の機会均等からの全国的一定水準確保、教育内容の正確さ・中立性・公正性等であり、検定内容に関しては、第3次訴訟第一審判決(89年判決、東京地裁)以来累積して、「草莽隊」「南京大虐殺」「軍の婦女暴行」「731部隊」の記述に関する検定を違法として国側に賠償を命じている。
     また、76年の旭川学テ最高裁判決では、判示は、児童・生徒の批判能力の未発達、教育の機会均等からの全国的一定水準確保の点から「普通教育における教師に完全な教授の自由*2を認めることは、とうてい許されない」としつつも、「例えば教師が公権力によって特定の意見のみを教授することを強制されないという意味において、また、子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならないという本質的要請に照らし、教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならないという意味においては、一定の範囲における教授の自由が保障されるべきことを肯定できないではない」としている。そして、「児童は学習をする固有の権利を有する」という学習権の肯定がなさている。
     自民党憲法調査会の認識する「国の教育権」は教育の国家統制に他ならない。政府与党は、教基法改悪によって「教育」を「教化」に変質させて、批判能力の育成を含む児童・生徒の人権である学習権を蹂躙し、教育バウチャー制他を企図して教育の機会均等を破棄しようとしている。政府与党の意図は、ひとえに、「国防の義務とか奉仕活動の義務というものは若い人たちに義務づけられるような国にしていかなければいけない」ことにある。
     今、日本は、近代公教育草創以来の民主教育の蓄積を放擲し、「教育の自由」を破壊しようととしている。

    *1 
     同条項の趣旨を、「教育は……教育者自身が不覇独立の精神を以て自主的に遂行せられるべきものである」と把握する見解がある(田中耕太郎『新憲法と文化』1948年、104頁〉。また、同条項には、教師の教育権限の独立保障の原理が含まれると解する見解がある(兼子仁『教育法〔旧版〕』1963年、126−7頁)。言い換えれば、教育に対する「不当な支配」を禁ずることは、教育の自由を保障することでもあるわけである。 
     この「不当な支配」の主体としては、「政党のほかに、官僚、財閥、組合等の、国民全体でない、一部の勢力が考えられ」ていた(辻田カ・田中二郎監修『教育基本法の解説』1947年、130頁)。この点で、「教育の関与のしかた」を問題にせずに、「不当な支配」の主体論だけを切り離して論ずべきでないとする指摘がある(兼子仁『教育法〔新版〕』1978年、293頁)。教育行政の拘束力をもつ教育支配が、まず「不当な支配」として戒められるべきである、というのが教育法学の通説であるといってよい。条理解釈に基づけば、校長が事前に教師の了解もなく、無断で授業中の教室に入って監視することは、「不当な支配」になるのである。 
     本文中の記載も含め、「教育の自由と時間外勤務について」(名古屋大学教育学部教授・榊達雄)より。
    引用元:「時間外労働強制深谷裁判」HP http://www.aikyourou.jp/sankou/hukayasaiban.htm
    ・「時間外労働強制深谷裁判」は、入選業務(複合選抜制)にかかる長時間労働に対する 損害賠償訴訟。原告:愛知県公立中学教職員。名古屋高裁02年1月23日棄却。
    *2 
     ここにいう「教授の自由」は、日本国憲法第23条に保障された「学問の自由」にもとづく。「学問の自由」は、「研究の自由」「研究発表の自由」「教授の自由」「大学の自治」をその具体的内容とする。「教授の自由」は、「学問の自由」が「大学の自由」と同義に解されてきた歴史から、旧来「大学における」講義の自由であると考えられていた。初等および中等教育機関における教育の自由がこれに含まれるかどうかについてはこれまで激しく議論されてきた。
    フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」より http://ja.wikipedia.org/wiki/

    その他の参照 一関「インターネット・おやじの会」資料室 http://www.ichinoseki-net.jp/oyaji/index.html
    早稲田大学法学部水島ゼミ http://mizushima-s.pos.to/lecture/2001/010606/010606_06.html

2.教育の政治利用が始まっている

  1. 教育再生会議は教育を論議していない。
    「教育基本法改正を踏まえ」「『美しい国づくり』を目指す」とする「教育再生会議第1次報告」(内閣、以下「報告」)が、07年1月24日に公表された。その内容は、要するに、詰め込み教育と管理教育、さらには、教職員統制強化と教育行政への国の関与権増大である。つまり、「落ちこぼれ」「落ちこぼし」が流行語となっていた校内暴力全盛の昔に戻れということであり、その状況を克服するために学校外の協力を得ながら重ねてきた様々な現場の実践を全く顧みていない。子ども不在の、国家戦略としての人材教育立国・科学技術立国のみを課題とし、国による一方的な管理統制を目論んでいる。
     理由は後述するが、教育再生会議が大文字で掲げる、いじめ問題や未履修問題は、教育の国家統制のための大義名分に過ぎない。教基法改悪強行に際して、それら対する野党4党の追求に十分に答えられなかったことから、また、84年の中曽根内閣臨教審発足が、当時の家庭内暴力・校内暴力・いじめの社会問題化を背景としていたことの踏襲から、枕詞として「報告」に冠したと見るべきだろう。 
     教育を考えない教育再生会議をめぐって、早くも、政府与党と文科省、国と地方行政との間の軋轢が顕著となってきている。
  2. 教育再生会議は教育の政治利用のための傀儡である。

     主に首相側と文科省側の対立から「報告」の閣議決定が見送られたにも関わらず、安部首相は、07年1月25日招集通常国会への、「報告」にもとづく教育関連3法(教員免許法・地方教育行政法・学校教育法)の改悪案提出を指示している。
     07年2月6日に初の総会を開いた第4期中教審で、伊吹文科大臣は、約1カ月の集中審議で教育関連3法案について答申するよう要請している。が、いじめを放置したり、必修科目の未履修を続けたりするなど、教育委員会の事務が「著しく適正を欠く」場合に、文科大臣が是正の勧告や指示ができるとする教育再生会議改革案*1に対し、国と地方の関係を対等とした地方分権一括法の主旨に反するものとして、委員の石井正弘・岡山県知事が強く反発をし、宮城篤実・沖縄県嘉手納町長がそれに賛同を示している。
     この件は、大きな波紋を呼び、同日、全国知事会・市長会・町村会の会長が「地方分権の観点から問題がある」と抗議を表明し、さらには、2月15日に、内閣府の規制改革会議*2が文科省の権限拡大に強い懸念を示す意見書を公表して、内閣不一致の状況となっている。先に、規制改革会議は、いじめを受けた場合などに通学する学校を替えることができる「学校選択制」や、保護者らによる「教員評価制度」について、制度導入促進を決めた閣議決定に従わない教育委員会の実名を公表する方針を定めているが、これは、教育再生会議側に対する牽制措置と受け止められる。また、教育再生会議改革案を一読した公明党幹部が、「教育は政治権力から独立したものでなくてはならないのが立党の精神。国の指示が行き渡らないから見直すという考え方は、絶対に相いれない。」と反発の意を示したという報道もある。
     これらの動向に対して、2月16日の自民党教育再生特命委員会では、「教育委員会が日教組支配でゆがめられている」(中山成彬委員長・前文科大臣)との観点から、教育行政に国の関与を求める意見が相次いだ、という。
     また、学習指導要領改訂等の問題については、07年1月30日の、第3期中教審最終総会において、鳥居泰彦元会長が、「ゆとり教育見直し」等について、「(再生会議と中教審は)どちらが主導権を持っているのかと聞かれるが、中教審は中教審としての責務を淡々と果たす」と発言をし、それへの報復であろうか、山谷えり子首相補佐官(教育再生担当)は、2月7日の水戸市での講演の質疑において、「(中教審は)生きる力が大事だとか、何とかかんとか、大ざっぱなことを延々と議論している」と指摘して、教育再生会議での中教審改革を検討する発言をおこなっている。これに対して、2月8日に安部首相がその発言内容を否定、2月9日に伊吹文科大臣が反論して、教育再生会議提言には直接拘束されない考えを改めて示している。
     07年2月13日には、全国の都道府県教委の教育委員長と教育長のそれぞれの協議会が、教育再生会議に対して、その議論について「一部の事象をもって全体の傾向とするなど、一面的なとらえ方が見受けられる」等と指摘し、学校現場など関係者の意見を聴き、「正確な現状分析と実証データに基づいて」「地方分権の視点に立って」議論するよう申し入れている。
    (朝日07年2月5日・2月6日・2月8日・2月9日・2月11日、2月13日、2月15日、2月17日、毎日07年2月9日、他)
     伊吹文科大臣の資金管理団体「明風会」が事務所費を会合・飲食費や交通費に流用していた汚職疑惑まで加えれば、醜悪きわまりない状況である。が、これらの軋轢は、教育再生会議が教育の政治利用のための傀儡であることを如実に示すものであり、政府与党の独善に対する異議申し立てが、地方行政から、文科省から、さらには内閣府内から、果ては与党内からも出始めていると見るべきだろう。
     こうした軋轢に政治的決着がなされ、政府与党の独善を許容する時、教育が本義を失い、教育現場は荒廃の一途をたどることは必至である。

    *1 07年2月5日。安倍首相が「報告」後にさらに教委「改革」に絞り込んで具体策を出すよう指示。「改革」案は、文科大臣是正勧告・指示の他、都道府県・政令指定市への「教育委員会外部評価委員会」の設置、都道府県教委による「外部評価委員会」を活用した域内の市町村教委(政令指定市を除く)への第三者評価の実施、また、市町村教委に「一定の教員人事権」に移譲しながらも、都道府県教委による全県的な人事調整制度の設定、を提唱している。(朝日07年2月6日)*2 内閣。規制改革・民間開放推進会議(07年1月25日解散)の後続組織として、1月26日設置。同日設置の、規制改革推進本部と両輪をなす。「学校選択制」「教員評価制度」の導入促進は規制改革・民間開放推進会議がまとめた政府の3カ年計画に盛り込まれ、06年3月に閣議決定。

3.詰め込み教育への逆行と競争主義・能力主義の強化

  1. 「ゆとり教育の見直し」は「見直し」どころではない。

     「報告」は、「『ゆとり教育』を見直し、学力を向上する」と明記し、その章の副題として「『塾に頼らなくても学力がつく』、教育格差を絶対生じさせない」と掲げる。同時に、「詰め込み教育にしない」ことを提言内容に含んでいる。これは、野田依治座長が塾の商業主義を批判して繰り返し主張した「塾の禁止」〔規範意識・家族・地域教育再生第2分科会〕が、何ら「報告」に反映されていないというマスコミ報道が繰り返しなされたことに対する配慮と、「学力低下批判」にふらつきながらも、「受験戦争緩和」を旨とする中教審答申を基盤とした教育政策を進めている文科省への配慮と推測する。しかし、要するに、夜遅くまで子どもを拘束している塾での学習内容をも学校でおこなうということであり、「詰め込み教育」以外の何物でもない。
     文科省の「ゆとり教育」政策は、以下の現状分析をもととしている。

    (ゆとりのない生活)
     まず、現在の子供たちは、物質的な豊かさや便利さの中で生活する一方で、学校での生活、塾や自宅での勉強にかなりの時間をとられ、睡眠時間が必ずしも十分でないなど、[ゆとり]のない忙しい生活を送っている。そのためか、かなりの子供たちが、休業土曜日の午前中を「ゆっくり休養」する時間に当てている。また、テレビなどマスメディアとの接触にかなりの時間をとり、疑似体験や間接体験が多くなる一方で、生活体験・自然体験が著しく不足し、家事の時間も極端に少ないという状況がうかがえる。
     このような[ゆとり]のない忙しい生活の中にあって、平成4年及び6年のNHKの世論調査においても、「夜、眠れない」、「疲れやすい」、「朝、食欲がない」、「何となく大声を出したい」、「何でもないのにイライラする」といったストレスを持っている子供もかなりいることが報告されている。

    中教審「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」第一次答申96年7月

    (過度の受験競争の緩和)
     受験競争に巻き込まれている子どもたちについては、小さいころから、いわゆる「よい大学」への進学を意識し、そのため、生活全体から[ゆとり]が失われるという状況が見られる。そして、過度の受験勉強に神経をすり減らされ、様々な生活体験、社会体験、自然体験の機会を十分に持つことができず、豊かな人間性をはぐくむことが困難になっている。特に、小学生の子どもたちが、夜遅くまで塾に通うといった事態は、決して望ましいことではなく、憂慮すべきことと考える。 また、過度の受験競争は、高等学校以下の学校段階における教育や学習の在り方を、受験のための知識を詰め込むことに偏らせる傾向を招き、自ら学び、自ら考える教育への転換を図るというこれからの学校教育が目指す方向性との乖離を少なからず生じさせている。
    中教審「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」第二次答申97年6月

     「報告」は、こうした状況分析を完全に無視し、「基礎学力強化プログラム」として、「授業時数の10%増加、基礎・基本の反復・徹底と応用力の育成、薄すぎる教科書の改善」を内容とする「学習指導要領改訂」をおこなう*1、以下の教育政策を提言している。

    ○基本的教科充実、授業時10%数増、各教科の選択の幅を広げ詰め込み教育にしない
    • 「放課後子どもプラン」の活用 = 補習などを行う「土曜スクール」
    • 文部科学省・教育委員会による実行状況のチェック徹底、「未履修問題」再発防止
    ○全国学力調査
    • 調査結果を教育委員会は夏休み前に学校へ伝達
    • 保護者に対し、自校の学力の状況や学習状況を開示し、改善計画とその成果を説明
    • 夏休み・放課後活用の補習実施
    ○伸びる子は伸ばし、理解に時間のかかる子には丁寧にきめ細かな指導
    • 学校の裁量拡大 = 履修内容に関する選択の幅を拡大
    • 子供たちの能力や理解度に応じた教育を推進 = 習熟度別
    • 小集団・学校選択制導入 = 子供に合った教育内容や教育方法

    ここに見られるのは、詰め込み教育であり、全国学力調査による競争であり、また、「選択」の名を冠した能力別階層化、である。

    *1 全国学力調査をごり押した中山成彬前文科大臣は、第3期中教審がスタートした05年2月に、指導要領の全面的な見直しを中教審に要請し、教育課程部会が39回、それぞれの教科などを検討する専門部会が計135回開かれたが、07年1月までの任期中に答申には至っていない。 (朝日07年2月5日)

  2. 詰め込み教育
     
     「土曜スクール」の方策とされている「放課後子どもプラン」は、06年5月9日に公表されたばかりの、文科省・厚労省共同事業であり、本来は、子どもの「居場所」「遊び」の確保及びそのための安全確保を目的とした「放課後児童健全育成事業」である。5月に予定されている「教育再生会議第2次報告」は、学校五日制の見直しを内容に含んでいると報道されているが、その布石に悪用をされている。 
     また、「詰め込み教育」遂行を監視するべく、「未履修問題」が大義名分とされている。都立高校について、理科総合で必修逃れをおこなった学校が約10校存在していたが、都教委はこれを容認したこと(読売06年12月12日)、また、総合学習を受験対策に振り替えた未履修をおこなった学校が約20校存在していたが、都教委がこれを黙認したことが報道されている。この背景には、進学指導重点校の指定などによる進学率向上の「都立高校改革」があることが指摘されている(産経06年12月12日)。
     産経新聞社説は、これに対して、「受験がすべてではないが、学校は勉強をするところであり、受験対策を頭から否定するべきではない。小中高を通じ、児童生徒が塾や予備校に行かなくても学力を身につけられるような、指導要領の抜本的改革が急務である。」(「都立高校改革の火は消すな」、06年12月13日)と述べている。「報告」は、こうした主張をそのままに採用している。*1
     放課後も、土曜も、夏休みも、補習に駆り立てられる子どもに、「過労死」が発生するのではないかと憂慮する。

    *1 山谷えり子首相補佐官(教育再生担当)は、サンケイリビング新聞記者・編集長、産経新聞記者の経歴がある。

  3. 競争主義

     「保護者」に対してとはいえ、悉皆の学力調査*1を学校ごとに公開し、個々の子どもに対する夏休みの補習等や、また、個々の教職員の授業計画にシフトさせること、さらには、学校選択制度に連動させることは、教育権の問題として重視するべきである。
     旭川学テ事件は、一審(旭川地方裁判所、64年5月25日判決)、二審(札幌高等裁判所68年6月26日判決)の無罪判決を翻して、76年5月21日に最高裁判決において、教職員に教育の自由は一定の範囲において存在するが、合理的範囲において制限され、学テは合憲であると結論付けて、敗訴した。しかし、判決は、教育権に関して、児童は学習をする固有の権利を有するとしている。また、国の教育権を一定程度認めたものの、それは、「子ども自身の利益の擁護のため、又は子どもの成長に対する社会公共の利益と関心にこたえるため、必要かつ相当と認められる範囲において、子どもの教育内容を決定する権能を有する。」と制限をしている。
    (裁判要旨、裁判所HP・裁判例情報・最高裁判所判例集)
    http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=01&hanreiNo=26699&hanreiKbn=01
     「報告」が提言する政策は、子どもの学習権を侵害し、「必要かつ相当と認められる範囲」を逸脱した、国の教育権の貫徹である。政府与党が、07年度中に予定している学習指導要領の改訂等において、提言を教育政策として現実化していくのであれば、再び教育権のあり方を問う裁判闘争などのとりくみが必要となる。それは、政府与党が自明としている学習指導要領の法的拘束性を、「国旗・国歌」以外の側面からも問う展開においておこなわれなければならないと考える。

    *1 文科省調査によると、07年4月24日に行われる全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)に対して、私立学校871校のうち約4割の332校が「独自の教育理念や方針」と異なることを理由に不参加、また、愛知県犬山市教育委員会が「独自の教育理念に合わないので、参加することに支障がある」として不参加と回答している。(参加率99・96%)(毎日07年2月16日)

  4. 能力別階層化

     「報告」は、「詰め込み教育にしない」方策として「各教科の選択の幅を広げ」ることを提言している。しかし、それは、子どもの興味・関心に応じた、自由選択科目多様化を意味しない。「履修内容に関する選択の幅」を拡大し、「子供たちの能力や理解度に応じた教育」をおこなうことであり、要するに、「習熟度別・小集団」の名を冠した能力別階層化を学校内でおこなうということである。換言すれば、「理解に時間のかかる子」は落ちこぼし切り捨てるということである。
     それは、「学校選択制導入」にもシフトし、「教育再生会議第2次報告」で予定されている教育バウチャー制導入に連動する。学校の能力別階層化であり、切り捨てである。
     教育バウチャー制は、第3分科会(教育再生分科会)での論議で、「公立学校の基盤を揺るがしかねない」として検討が放棄され、規制改革会議委員を兼ねる白石真澄東洋大教授が主査を務める、第1分科会(学校再生分科会)に委ねられた、と報じられている(東京06年12月8日)。前身の規制改革・民間開放推進会議は、06年12月25日に最終答申案を成し、「教育・研究分野」において、「教育バウチャー制導入検討」を掲げている(読売06年12月7日)。この経緯は、教育再生会議が、政府与党の一方的主導によって進められていることを示すものである。教育バウチャー制については、07年5月に予定されている教育再生会議第2次報告に、学校週5日制の見直し等とともに盛り込まれることとなっている。
     さらに、文科省は、05年10月31日に、「規制改革・民間開放推進3か年計画」及び「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2005」にもとづき、教育バウチャー制研究会を立ち上げており、「重点強化期間内(06年度内まで)に、文部科学省の政策判断のための論点整理を行う」としている。本レポート作成の07年2月中旬現在、文科省HPには、06年9月8日までの審議報告がUPしているだけであるが、この動向も十分注視する必要がある
     「教育格差」は、必ず、学校内の、また、学校間の能力別階層化にシンクロする。
    「公立学校の基盤を揺るがしかねない」状況に際しては、憲法26 条「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」に規定された「教育を受ける権利」の人権保障の観点から、厳しく問うていく必要がある。

4.管理教育の復活

  1. 教育再生会議はいじめ問題を利用している。

     教育再生会議は、「報告」に先立って、06年11月29日に有識者委員一同名で「いじめ問題への緊急提言」を公表するなど、いじめ問題への対処を強調している。
     確かに、いじめ問題は年々その深刻さを増している。07年2月10日から12日に、大分県別府市で開催された第56次日教組全国教研でも、いじめ問題をテーマにしたシンポジウムにおいて、参加した有識者や教職員から「いじめは教職員からは見えにくい」「学校の力には限界がある」などの指摘が相次ぎ、コーディネーターの喜多明人・早稲田大教授は、いじめを受けた場合の相談相手に教職員を挙げる子どもは13%しかおらず、友達か親に打ち明ける子が圧倒的に多いとする調査結果を紹介した上で、「学校は力の限界を認めた上で役割を考える必要がある」と指摘している。(日経07年2月12日)いじめ問題の深刻さは、その対処が困難さが原因である。
     教育再生会議は、06年9月9日の北海道滝川市でのいじめ自殺に対する市教委の不手際に端を発する文科省調査の不備*1や、06年11月7日の文科省への「いじめ自殺予告」の手紙を好機として、いじめ問題をフレームアップして利用したのではないかとの感を免れない。その目的は、教職員統制強化と教育行政への国の関与権増大とともに、改悪教基法に則り、国家と社会に役立つ資質を持つように子どもを教化するための「公」の強調への利用である。
     先述のように、84年の中曽根内閣臨教審は、当時の家庭内暴力・校内暴力・いじめの社会問題化を背景として、「学歴偏重の社会的風潮や受験競争の過熱化」「学校教育の画一性硬直性」等とともに「青少年の問題行動」を発足の根拠としている。また、00年発足の小渕・森内閣教育改革国民会議は、00年5月3日の17才の少年による西鉄バスジャック事件など、少年法「改正」の契機となった少年犯罪の凶悪化に対して、発足直後の00年5月11日に、座長江崎玲於奈名で「緊急アピール」を発している。教育再生会議は、これらの手法を踏襲している。
     いじめ問題は、今現在深刻化したのではない。80年代から社会問題化しながら、その解決がつかないことが深刻なのである。臨教審答申も教育改革国民会議報告も、何らそれに益してはいない。枕詞に教育問題を掲げようとも、子どもを見ていない改革案であれば、当然のことである。それは、教育再生会議においても同様である。

    *1 児童・生徒の問題行動に関する文科省調査において、99〜05年度の間に、いじめを苦にした自殺件数が「ゼロ」であったことが問題化した。文科省は、07年1月19日、児童・生徒の「声」を聞いた上で記入するなど、いじめや自殺など調査を抜本的に見直すことを決定し、07年度から実施するとしている。いじめの定義については、従前の「一方的に」「継続的」「深刻な」といったいじめを限定してとらえかねない表現を削除し、以下のように改めている。「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的・物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」。(朝日07年01月19日) しかし、この定義の改訂は、報告件数を増加させるだろうが、いじめ問題の解決にはつながらないのではないか。

  2. 教育再生会議は、いじめ問題解決の提言をしていない

     「報告」に、いじめ問題・校内暴力への対策として記されているのは、「校則にいじめ・校内暴力など反社会的行為の禁止を明確に示し」て「いじめている子供や暴力を振るう子供には校則違反として厳しく対処する」ことや、「いじめている子供に、その行為が人権侵害にもなり、不正義で人間として恥ずべき愚かな行為であることを認識させる」こと、また、「いじめが起こった原因・背景を調査・検証し、是正を行う」ことや「警察との連携も視野に入れながら適切な指導を行う」こと*1、「全教員の協力体制を築く」ことなどであり、改めて言われずとも、現在どこの学校でもとりくまれていることである。
     教育再生会議が示した「4つの緊急対応」には、「暴力など反社会的行動をとる子供に対する毅然たる指導のための法令等で出来ることの断行と、通知等の見直し(いじめ問題対応)」が記されており、あたかも、従前文科省がとってきた「体罰の禁止並びに暴力の否定」(70年7月22日通知)を見直させるかのような印象を与える。
     これに対し、文科省は、07年2月5日に「体罰に関する考え方」を都道府県・政令市教育長らに通知し、「一定の限度内で懲戒のための有形力(目に見える物理的な力)の行使が許容される」という以下の裁判例を盛り込んでいる。(毎日07年2月5日)
     
    1. 放課後も教室に残して指導する。
    2. 授業中、教室に起立させる。
    3. 学習課題や掃除当番をほかの子供より多く課す。
    4. 授業中に立ち歩く子供をしかって席につかせる。
    5. 騒いでほかの子供の邪魔をした場合などに、別室で指導するなどの措置をとった上で教室の外に出す。
    6. 授業中にメールを打つなど学習に支障を与える場合、子供から携帯電話を一時的に預かる。
    7. 暴力を振るう子供から教師が身を守るためなどやむを得ない場合、力を行使して子供を制止する。 (読売07年2月3日)

     「体罰の禁止並びに暴力の否定」は、48年12月22日の、国家地方警察本部長官・厚生省社会局・文部省学校教育局あての法務庁法務調査意見長官回答「児童懲戒権の限界について」を根拠としている。さすがに、6.や7.の事例はこの当時想定されていないが、「出席停止」や「個別指導や別室等での教育」でマスコミをにぎわせた5.の事例を含めて、すでにこの回答に明示されている。

    第3問 授業中学習を怠り、または喧騒その他、ほかの児童の妨げになるような行為をした学童を、ある時間内、教室外に退去させ、または椅子から起立させておくことは許されるか。回答 児童を教室外に退去せしめる行為については、第2問2の回答に記したところと同様、懲戒の手段としてかかる方法をとることは許されないと解すべきである。ただし児童が喧騒その他の行為によりほかの児童の学習を妨げるような場合、他の方法によってこれを制止し得ないときは、〜懲戒の意味においてではなく〜教室の秩序を維持し、ほかの、一般児童の学習上の妨害を排除する意味において、そうした行為のやむまでの間、教師が当該児童を教室外に退去せしめることは許される。

     当然のことながら、「毅然たる指導のための法令等で出来ることの断行」も含め、学校教育法第11条「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。」に規制された上での措置である。
     教育現場が「出席停止」や「個別指導や別室等での教育」を安易におこなわないのは、「毅然たる指導」ができないからではなく、学習権の問題を考えるからであり、高校における「特別指導」においては「学習課題」が措置されるのが常識となっている。
     神奈川においていじめ問題にもっともとりくんだ有識者団体は、「神奈川の教育を推進する県民会議」*2である。94年の「いじめを考える緊急シンポジウム」以来、「いじめ問題に関する県民のつどい」「いじめ問題に関する草の根の教育論議」「ふれあい教育推進検討委員会(ふれあい教育の観点からいじめのない教育環境の創造を目指す)」等のとりくみを重ね、「『いじめ』問題を始めとする今日的教育課題の解決に当たっては、子どもたちも自らの問題として受け止め、考え、主体的に行動していくことが重要である。そうしたことから、子どもたちの声をいかした運動への展開を図」る観点から、「子ども実行委員会」「地域ミニ子ども会議」「神奈川ふれあい子どもサミット」のとりくみに至った。
     いじめ問題解決には特効薬はなく、このような地道なとりくみを重ねるより他に方策はない。文科省は、いじめ問題を以下のように認識している。
     
    いじめ・登校拒否の問題の背景には、このような様々な要因が考えられ、また個々のケースによりまちまちであるが、一つの見方として、我々の社会が「同質にとらわれる社会」という問題点を持っていることから来ているという指摘もなされている。個性を尊重し、お互いの差異を認め合うことの大切さは、これまでの我々の社会では十分に顧みられてこなかった。 我々も、この「同質にとらわれる社会」の影響は広く各方面に及んでおり、いじめ・登校拒否の問題ともかかわっていると考えるのである。 例えば、子供たちの間に、仲間と群れていないと不安になる心情や、仲間と同じであることが、いじめを受けないための防御行動だという考えが見られる。進んで仲間になっているのではなく、いじめを受けないためという消極的な動機から行動を共にしている事例も報告されている。こうしたことは自分の個性を大切にし、自我を確立する上でも、子供たちの豊かな情操を培う上でも影を落としていると言わなければならない。また、登校拒否の子供への指導に当たって、元の仲間や生活に戻ることのみにこだわるのでなく、子供が登校拒否を克服する過程でどのように個性を伸ばし、成長していくかという視点を大切にして、ゆっくり時間をかけて取り組むことも大切なことである。 このような意味から、我々は、いじめ・登校拒否の問題の解決のためには、同質志向を排除して、個を大切にし、個性を尊重する態度やその基礎となる新しい価値観を、社会全体が一体となって育てることも重要であると考える。
    中教審「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」第二次答申97年6月

     「報告」には、こうした視点は皆無であり、いたずらにインパクトを狙うためにのみ、いじめ問題を利用している。「報告」に示された「その(悪質ないじめや暴力などの反社会的行動をとる)子供を立ち直らせる」方策には、「保護者への理解と協力を求めること」「児童相談所や警察等の関係機関との連絡」「出席停止の場合の関係機関が協力しての指導・サポート体制」という、今さらながらの記述とともに、「社会奉仕等の体験活動を採り入れること」が記されている。この記述は、06年11月29日の全体会議直前出された最終案で、唐突に浮上し、運営委員の一人が「議論したこともない」と不満をもらしたという報道(毎日06年11月30日)がある。
     「報告」が強調するのは、「個と公のバランス」(=「公」の重視)のみである。それは、上の文科省見解に照らせば、むしろいじめを助長する土壌を作るものである。

    *1
     学警連の項にわざわざ挿入された「LD(学習障害)、ADHD(注意欠陥・多動性障害)、アスペルガー症候群や虐待等による行動でないか等、問題行動の背景に十分注意する必要がある」という記述に対して、自民党尾辻秀久元厚労相・公明党福島豊衆院議員らは、「障害児教育について一切記述がないにもかかわらず、この部分でだけ発達障害について触れると、障害児がいじめの加害者になる可能性が高いと一般の人びとから誤解される」として表現の訂正などを求める公開質問状を、教育再生会議に提出している。 (朝日07年1月29日) 

     障害児教育についての視点がないことは、「報告」の欠陥を示す一例である。

    *2
     81年6月9日の長洲県知事(当時)アピール「騒然たる教育論議」提唱を受けて、82年4月16日に54団体で構成して発足。04年9月28日の県議会本会議での小島健一県議(自民)の「いちゃもん」とも言うべき一般質問に、県教委が屈して、05年3月31日に解散。詳細は、高総検レポートNo.73「私たち教職員が『騒然たる教育論議』を!」参照。(神高教HPにUP)

  3. 教育再生会議の提言は、規範意識と集団主義のみである。
     
     「報告」が、「すべての子供に規範を教え、社会人としての基本を徹底する」として掲げる教育内容に対する改革案をまとめると、以下の通りとなる。

    ○集団活動・集団生活体験・スポーツの積極的活用
    • 長期集団宿泊体験・「国内留学」、自然体験、奉仕活動、ボランティア体験、  職業体験等、30人31脚・大縄跳び等、ロボット・コンテスト等
    ○親として必要な「親学」の実施、他(=家庭や地域の教育力低下への対策)
    ○「道徳の時間」についての十分な授業時間の確保 「小さな親切」運動や「一日一善」といった教育目標
    ○奉仕活動
    • 高校で奉仕活動での必修化、大学秋季入学普及促進(入学前の半年間の活用)
    ○芸術・文化活動
    • コーラス・合奏・演劇・写生・創作
    ○徳目や礼儀作法、形式美・様式美
    • 古典や偉人伝等の読書、民話・神話・おとぎ話、童謡、茶道・華道・書道・武道
    ○朝の読書の教育課程への位置づけ

     「親学」(教育委員会・自治体及び関係機関が、これから親になる全ての人たちや乳幼児期の子供を持つ保護者に対して実施)の実現性のなさや、唐突に登場する芸術・文化活動の意味不明さ(コーラス・合奏・演劇が集団創作であることのみに着目しているのか)、四書五経のイメージから脱却していないのではないかと疑われる「読書」への傾倒など、思い付きを並べているのではないかとの疑義を禁じ得ない。ことに、教育改革国民会議報告の際に大きな論議となった、奉仕の義務化に関して、「無報酬・公共性」とともに「自主性」が成立要件であるボランティアとの矛盾や、憲法第18条に規定された「苦役の禁止」との法的整合性に、何の説明もない。
     第一、詰め込み教育・全国学力調査による競争・能力別階層化を措置した中で、時間割や行事予定のどこに、これらを実施する余裕があるのだろうか。
     要するに、「報告」は、規範意識・規律の強調と奉仕活動・集団主義の強調が先にあり、都教委の高校での奉仕活動必修化など、話題性のあるものを当てはめただけではないだろうか。自然体験・職業体験などは、総合学習から生まれたものであり、「規律、奉仕の精神、社会のルール、相互扶助の大切さや達成感を学ぶ」ことを第一義にとりくまれたものではない。
     06教基法成立に臨んで、安部首相は以下のようにアピールを掲げている。

    (内閣総理大臣談話)「この度の教育基本法改正法では、これまでの教育基本法の普遍的な理念は大切にしながら、道徳心、自律心、公共の精神など、まさに今求められている教育の理念などについて規定しています。」「本日成立した教育基本法の精神にのっとり、個人の多様な可能性を開花させ、志ある国民が育ち、品格ある美しい国・日本をつくることができるよう、教育再生を推し進めます。」06年12月15日

     高総検レポートNo.87「教基法改悪から教育再生会議報告へ」(神高教HPにUP)において指摘したように、06教基法は、国民一人一人の学習する権利を保障する法規を、国家戦略としての人材教育立国・科学技術立国の手段に下落させ、教育を、あるべき「国のかたち」を法典によって上から教え込もうとする「教化」に変質させている。それは、「公共」「規範」を強調し、「個人」「個性」を希薄化して、「同質にとらわれる社会」を強要する。学校にせよ、児童生徒にせよ、詰め込み教育・全国学力調査による競争・能力別階層化の「勝ち組」のみが、そこから脱出して、他を差別化できる地位に就くことができる。「報告」は、その具現に他ならない。
     神奈川では、80年代の急増期に県立高校100校計画が措置され、学校間格差によって新設校を中心に課題集中校が生じた。先に引用した中教審「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」第一次・第二次答申が指摘する状況が極限に達し、校内暴力が流行語となった。課題集中校においては、やむを得ず、スカートの丈を計ることに象徴されるような「公共」「規範」を強調した管理教育をおこなってきた。以来30年弱に渡り、私たちはそこから脱却するために様々な実践を重ねてきたはずである。



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