高総検レポート No 78

2005年12月8日発行

教育基本法改悪反対アピール

絶望している場合ではない、学び考え行動をおこそう!

 ■あきらめてはいけない■
 
本年9月11日衆議院選挙において、自民党の議席数が過半数を大幅に上回り、与党は改憲の発議が可能な3分の2を超える議席を獲得した。与党がどのような立法も短時間の審議で通過させることが可能な国会情勢が現出しており、次期通常国会では、憲法改悪の加速化とともに、教育基本法改悪案の上程が必至の情勢となっている。
 現場では、「日の丸・君が代」のさらなる強制や、「県立高等学校学習状況調査」の実施など、教育基本法改悪を先取りするような施策が進展をしている。もう何をしても無駄なのではないかという絶望的な状況に見えてしまう。
 しかし、あきらめてはいけない。現段階では、まだ与党協議会の中間報告が提示されているだけである。広範な改悪阻止の運動において、教育実践のとりくみにおいて、行動をおこすのは今しかない。
 私たち教職員の最大の責務は、生徒に豊かな教育を保障することである。教育基本法改悪は生徒に何をもたらすだろうか。

  ■学校が競争原理の戦場となる■

○第2条 教育の方針(目標)

【現行法】
 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければなら ない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自 発的精神を養い、自他の敬愛と協力によつて、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。

【改悪案】
 教育は、教育の目的の実現を目指し、以下を目標として行われるものであること。
 @ 心理の探求、豊かな情操と道徳心の涵養、健全な身体の育成
 A 一人一人の能力の伸長、創造性、自主性と自立性の涵養
 B 正義と責任、自他・男女の敬愛と協力、公共の精神を重視し、主体的に社
   会の形成に参画する態度の涵養
 C 勤労を重んじ、職業との関連を重視
 D 生命を尊び、自然に親しみ、環境を保全し、良き習慣を身に付けること
 E−1 伝統文化を尊重し、郷土と国を愛し、国際社会の平和と発展に寄与す
   る態度の涵養(自民党案)
 E−2 伝統文化を尊重し、郷土と国を大切にし、国際社会の平和と発展に寄
   与する態度の涵養(公明党案)

教育基本法改悪の問題は、愛国心(「郷土と国を愛し」「郷土と国を大切にし」)の強制だけではない。第2条に加えられた「一人一人の能力の伸長、創造性、自主性と自立性の涵養」は、他の改悪案の条項と連動して学校を競争原理の戦場と化す。


○第3条 教育の機会均等

【現行法】
 すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなけれならないものであって、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。
2 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学 困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない。

【改悪案】
 国民は、能力に応じた教育を受ける機会を与えられ、人種、信条、性別等によって差別されないこと。
 国・地方公共団体は、奨学に関する施策を講じること。

第3条第1項の改悪案では、「教育を受ける機会」にかかっていた「すべて」「ひとしく」が削除され、「なけらばならない」が「与えられ」に弱められている。また、「社会的身分、経済的地位又は門地」の差別禁止の規定も「等」にくくられて実質的に削除されている。
 第2項では、「奨学」の対象として「経済的理由によって修学困難な者」の規定が削除され、「講じなければならない」が「講じること」に弱められている。
 つまり、「能力の伸長」「創造性」の発揮ができなかった者は、「経済的理由」その他のいかなる事情があろうとも、自己責任において身を処すべきであるということである。「自主性と自立性の涵養」とは、こうした自己責任すなわち公の責任放棄を意味するものではないか。


○第6条 学校教育

【現行法】
 法律に定める学校は、公の性質をもつものであって、国又は地方公共団体の外、 法律に定める法人のみが、これを設置することができる。
2 法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であつて、自己の使命を自覚し、 その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない。

【改悪案】
 学校は、国・地方公共団体及び法律に定める法人が設置できること。
 学校は、教育の目的・目標を達成するため、各段階の教育を行うこと。
 規律を守り、真摯に学習する態度は、教育上重視されること。
 教員は、自己の崇高な使命を自覚して、研究と修養に励むこと。教員の身分は 尊重され、待遇の適正と養成・研修の充実が図られること。

学校から「公の性質」が削除され、教育の公共性が否定されている。すでに措置されている「学校選択の自由」(学区撤廃とリンクした「特色づくり」)に加えて、教育特区で実験されている「株式会社立学校」などを大幅に導入することを想定したものである。学校教育全体が市場原理の下に置かれ、学校間競争が激化すれば、当然生徒の間の競争も激しさを増す。
 教員から「全体の奉仕者」が削除され、その「使命」が変質させられている。「全体の奉仕者」としての「使命」とは、教育基本法前文に示された理念の実現のために、教職員個々がとりくむことである。改悪後は、いかに優秀な生徒を集め、いかに劣悪な生徒を切り捨て、いかに他校に打ち勝つかが、「崇高な使命」となる。


○前文

【現行法】
 われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、 根本において教育の力にまつべきものである。
 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期すると ともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底し なければならない。
 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。

【改悪案】
 「憲法の精神に則り」の扱いが検討事項。
(国会情勢から教育基本法改悪を憲法改悪の前哨戦としないことが予想される。憲法改悪と同時に前文が大きく書き換えられることも推測される。)

「競争は子どもを伸ばす」とよく言われる。類似の言説が保護者や教職員に支持されることもままある。例えばスポーツなど、競い合うことが教育上に果たす役割は確かにある。しかし、教育基本法改悪に目論まれている競争原理の導入は、そうしたポジティブなイメージでとらえられるものではない。
 競争原理が教育現場を支配するようになれば、生徒や保護者は、学校を選択する「商品」とだけ見なしていく。また、学校は、生徒や保護者を上質な「顧客」であるか否かのみを基準として選別していくようになる。
 しかし、上位の学校に進学できるのは、豊富な情報、手厚いケアを享受できる上位所得層のみである。恵まれた教育環境にある者しか「勝ち組」となれないことは、多くの識者が指摘している。いわば「出来レース」の競争である。
 また、こうした競争は、協働を阻害する。人間関係の構築を学ぶこと、協同による問題解決を学ぶこと、それらを社会的な諸問題に対する解決能力に高めること、学校の存在意義のひとつは、協働を学ぶことにある。協働を学び得ない競争の「負け組」は、自尊のために、さらなる「負け組」を希求する。自分たちより弱い者、自分たちと異なる者、ホームレス・身障者などの社会的弱者や他民族等への差別が醸造される。
 教育基本法改悪は、こうした構図の蔓延を公認する。


○第10条 教育行政

【現行法】
 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行
2 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。

【改悪案】
 教育行政は、不当な支配に服することなく、国・地方公共団体の相互の役割分担と連携協力の下に行われること。
 国は、教育の機会均等と水準の維持向上のための施策の策定と実施の責務を有すること。

第10条は、第6条に定められた教職員個々の「全体の奉仕者」としての「使命」を「国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもの」として保障し、教育行政の役割を教育条件整備に限定したものである。05年4月26日の北九州ココロ裁判福岡地裁判決(現在市教委控訴中)では、86年以来北九州市教委のなしてきた「4点指導」(国旗掲揚位置、国歌斉唱式次第位置付け、国歌斉唱ピアノ伴奏、教員全員参列)が、本条に違反する行政による教育への「不当な支配」であるとの判示をなしている。
 改悪案では、第1項の「教育」を「教育行政」にすり替え、さらに、「国民全体に対し直接に責任を負って」を削除して「国・地方公共団体の相互の役割分担と連携協力の下に」に変更することで、現行法の意義を全面的に抹消している。つまり、国家・行政の教育介入を容認するとともに、保護者や市民が教育行政を批判することを「不当な支配」として位置付けている。教職員の責任は、生徒や保護者・市民に対してではなく、国家主義統制や競争原理導入を施策化する教育行政に対して負うものとなる。

 ■教育実践が最大の武器である■

しかし、視点を変えれば、現行法第10条の破壊は、憲法・教育基本法改悪の政治勢力が、教職員や保護者・市民の教育行政批判に対して神経過敏になっていることをあらわすものではないだろうか。
 文科省施策は混乱をしている。05年10月26日の中教審答申『新しい時代の義務教育を創造する』では、学力低下批判から全国学力調査実施の方針を固めているが、詰め込み式への反省から「生きる力・考える力」を教育改革最大の目標としていることには変わりがない。外部評価を含めた学校評価に傾倒しているが、「開かれた学校」が、学校運営の「自主性・自律性」とともに「保護者や地域と連携協力すること」であることは、98年10月の答申『今後の地方教育行政の在り方について』と同様である。さして大きく報道もされない教育基本法改悪は、現行の行政施策の根本理念を一掃する。政治主導の国家主義統制と競争原理の蔓延は、教職員のみならず、保護者や市民の異議申し立てを招くことは必至である。
 高総検は、外部評価機関としてではなく、教職員・生徒を含めたコミュニティ形成の場としての学校協議会を展望する〈学校評議員制度〉を、また、学校運営の責任者としての学校長や教育行政に対する評価としての〈学校評価システム〉を、さらに、子どもの権利条約に根ざした〈生徒による授業評価〉を、発信してきた。学習指導要領に開いた風穴である総合学習や学校設定教科科目などを、市民教育として活用している授業実践も多々ある。
 「生きる力・考える力」と「開かれた学校」から、オルタナティヴスクールへの接近を展望できないだろうか。オルタナティヴスクールとは、「従来の学校カリキュラムにとらわれない新方式の学校」を意味する。日本では、不登校の児童・生徒を受け入れるフリースクール等としてのみ認知されているが、欧米では、20世紀初頭から第一次大戦後の時期に次々と生まれた一般的な学校形態である。
 高総検は、その展望をもって、現行の実践を総合し、生徒・保護者・市民の参画と協働による自主的・自律的な学校づくりを、教育基本法改悪反対の運動に位置付けることを、提言する。



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