高総検レポート No 9

1990年5月22日発行

まっぴらごめん 臨教審版『生涯学習』!!

 最近、「生涯教育」あるいは「生涯学習」ということばをよく聞く。臨教審答申の一つの柱になり、また文部省の中に「生涯学習局」というものまでできた。そう言えば、小中学生は塾にピアノにスイミング。高校生は予備校通い。大学生はダブルスクール。サラリーマンは研修づけで、カルチャースクールは大はやり。新聞を開くとありとあらゆる通信講座。「中小企業診断士」「社会保険労務士」「消費生活アドバイザー」などの聞きなれない資格(?)が紙面を飾る。幼児教育、更には胎児教育の必要性まで言われだしている。「お葬式」なる映画もあり、「伊丹十三の葬式入門」などという講座ががあってもおかしくない。「ゆりかごから墓場まで」というわけだ。そして死んだ後には(後があるとすればだが)「丹波哲郎の霊界での過ごし方講座」で勉強するということだろうか。生まれる前から死んだ後まで勉強かと思うと冗談じゃないという気がする。主体的に学習するならともかく、させられる勉強などまっぴらごめんだ。それに教育費がとてつもなくかかる。どうも「生涯教育」なるものはうさん臭い。というわけで、ここでは「生涯教育」について考えてみたい。

    生涯教育とは?

1.ユネスコの生涯教育

 生涯教育は、1965年のパリ-ユネスコ成人教育推進国際委員会における、ユネスコ成人教育課長P・ラングランの報告に端を発する。生涯教育(lifelong education)とは、人生のあらゆる段階を通じて行われる一人一人の啓発の努力(垂直的次元)と、それに対応する教育サービスの総体(水平的次元)の統合であるとされる。彼は、一人一人の自己教育を中心に、学校教育・社会教育を含めあらゆる教育を統合する新しい教育システムの創造をめざした。
 折りから、急激な技術革新や情報化の進展、産業構造の変化、余暇の増大や高齢化などの社会変化ヘの産業の側からの対応として、73年にはOECDの一部門である教育研究・革新センターが生涯教育の主要な要素として「リカレント教育」を提唱する。70年代には、生涯教育の理論が「先進資本主義国」の中で教育行政によって制度化され、日本において顕著に見られるように、資本-産業の側の新たな戦略となって行くのである。
 1972年にP・ラングランの後任となったE・ジェルピは、生涯教育が生産性の向上や従属の強化のために取り人れられ、結果的に既成秩序の強化の具となる危険性を有していることを指摘している。また一方で、生涯教育は、人々を抑圧しているものに対する闘争に関わる力にもなり得る、とも言う。結局のところ生涯教育は、資本ないしは抑圧する側の戦略にもなり得るし、労働者ないしは抑圧される側の戦略にもなり得る、という両義性を有しているということになる。ジェルピは教育が、不利益を被っている人々、抑圧されている人々、排除され搾取されている集団の要求に答えるべきだとし、生涯教育を、抑圧された人々が自ら学び、運動を展開し、自らを解放するための戦略として位置付けた。

2.スウェーデンの生涯教育

 88年度「我が国の文教施策」(教育白書)第一部第4章は「諸外国における生涯学習の現状」と題し、諸外国の紹介をしているが、不思義なことにスウェーデンを初めとする北欧諸国が入っていない。賢明な(ずるがしこい)文部官僚のことだから、余りにも日本の生涯教育とは異なるので、意図的に省いたのだろう。
 その省かれた「生涯教育の先進国」スウェーデンの教育の実情を見てみよう。
 スウェーデンでは、最も早く生涯教育に取り組み、誰もが、いつでもどこでも無償で学習できる、という学習社会が実現している。1968年から大学入学資格試験を廃止し、中学校から総合制高校(1971年に発足)、大学ヘと進学する際入学試験というものが全くなくなった。そして1971年には95%であった高校進学率が現在では75%〜80%となっている。進学率の低下は「リカレント教育体制」によるもので、いったん社会に出ても必要なときに高校や大学に入学できるからである。(有給数育休暇制度も確立している)そして、1977年の改革では定員制をとる大学でも、「年齢25歳以上で職歴4年以上」のものに対して定員の50%を割り当てるようになった。大学は全国6地域のそれぞれ中心にあり、生活の地を離れることなく教育を受けられる。
 また、企業内教育、国民高等学校、労働組合・市民団体の組織する学習サークルには国庫補助があり、70〜71年度には160万もの人々が参加した。(スウェーデンの人口は800万)

3.日本式生涯教育―だれのための生涯教育か

 ひるがえって日本の生涯教育を見た時、「日本式生涯教育」はそうした、スウェーデンなどの生涯教育やユネスコの提唱した生涯教育とは似て非なるものである。
 それはまず第一に技術革新や、情報化の進展、産業構造の変化、に効率的に対応するために、労働者の再教育を進め、あるいは、労働者の金と時間とエネルギーを使わせ労働者自身に学習させるものであり、また、学校教育が産業の側の要請にあわせて労働力を供給するようにさせるものである。
 第二に、文部省―国家が一人の個人を教育を通して、まさに生まれてから死ぬまで管理して行くということである。そして同時に、統合された教育体系のすみずみにまで文部省―国家の権力が及ぶということである。そこではP・ラングランの学習者主体の「垂直―水平」の体系がみごとに国家主体の体系ヘと換骨奪胎されている。「生涯学習」と名付けられてはいるものの、決して、自らが主体的に教育の目標―内容―方法、を一人の人間として自己決定し、学習していけるようにはなっていない。絶えざる学習を強いられるがために、「学習社会」を標傍しつつもその内容は、「学歴社会」の更なる強化に外ならないのである。
 第三に、地域社会の再編がある。近代化―都市化によって解体された地域社会を生涯教育を軸に再編しようとしている。「国土庁」のプランは、国センター→県センター→生涯学習センター(市町村レベル)→ブロックセンター(高等学校区)→コミュティーセンター、(小―中学校区)という系列を作り出すことによって教育の面だけでなく、地域社会をも包摂しようというものである。コミュニティースクールもこの中に組み込まれて行く恐れがある。
 第四に、学校教育の「自由化」をもくろみ、また、労働者の余暇の増大や、高齢化社会での学習需要に着目し、一層の教育産業の発展肥大化をめざすものである。本来ならば公的に無償で行われるべきものが、「受益者負担」「民活」の名のもとに新たな収奪として行われている。
 第五に、教育関連以外への波及効果である。コンピューターをはじめするハード関連機器や建築需要が見込まれ、また三全総―四全総にも位置付けられ、都市計画に組み込まれている。
 そうした「日本式生涯教育」を体系的に批判し、学習者主体の、労働者の権利としての「学習権」を基軸に私達の運動を展開すべきである。
 ジェルピは、労働者や、抑圧された人々が日常の活動の中で、自らを訓練し、教育し、知識を得ることを通じて自らを解放する戦略として、生涯教育をとらえた。いくら立派な制度があっても主体的な運動がなければ、制度は容易に抑圧のための手段となり得るし、逆に、どんな悲惨な状況のなかでも解放をめざす運動があれば、自らを訓練し、教育し、知識を得ることはできるということなのだろう。

    臨教審と生涯学習政策

1.急ピッチで進む生涯学習政策

 1987年8月、臨教審最終答申は、「学校中心の考え方を改め、生涯学習体系ヘの移行を主軸とする教育体系の総合的再編成を図っていかなければならない」として「生涯学習体制の整備」のための具体的方策を提起した。
 以来2年余、日教組が反対している初任者研修制度の実施などとは対照的に、生涯学習政策はさしたる抵抗もないまま急ピッチで進行している。88年7月の文部省における社会教育局の廃止、生涯学習局の設置。89年中教審生涯学習小委の設置と「生涯学習センター」創設の提起。89年・90年生涯学習関連事業の大幅予算化。そして、教育基本法による戦後社会教育を解体する「生涯学習振興法案」の準備。
 またこのような動きをうけて、神奈川県においても生涯学習政策は、先進的に展開されている。「単位制による新構想高校」計画などは、この政策の一環として位置付けられている。

2.「日本型生涯学習政策」とは

 日本で現在展開されている生涯学習政策はかつてユネスコが提唱したそれとは似て非なるものである。したがって、われわれはこれを「日本型生涯学習政策」と呼ぶ。
 それは、文部省サイドから内発的に打ち出された政策ではなく、国土庁・通産省・労働省などが先行的に進めてきたという経緯をもつ。臨教審最終回答の「この課題に最も責任を持つ省庁は文部省であることを自覚して、各方面に積極的対応を行なうべきである」という文言は、この政策において主導権を握ろうとする文部省官僚の焦りを感じさせる。しかし、答申にもられた具体的方策は「生涯学習を進めるまちづくり」「インテリジェント化」をはじめとして各省庁が提案してきた「日本型生涯学習政策」のやき直しそのものである。
 それでは、「日本型生涯学習政策」の本質は何か。端的にいえば、「四全総」による知識集約型産業を主軸とする産業構造の転換・再配置と、全国的な巨大情報ネットワークシステムの形成を促進する情報列島改造計画の下部計画といえる。

3.「日本型生涯学習政策」の特徴

 この政策は第一に、現行の学校教育を相対化・縮小し、臨調・行革路線にのっとり、教育ヘの公費を節減するとともに、教育の民営化ヘの道を開き、あわせて憲法・教基法を理念とする戦後民主教育の解体をもくろむものである。いってみれば、「教育の自由化論」の変種である。
 第二に、教基法7条に基づく戦後社会教育を否定し、カルチャーセンターなどの民間教育文化産業に行政が積極的連携・援助を与えるものである。いわゆる民活路線である。ここで注視しなければならないことは、この政策が国民を学習の主権者としてではなく、文化的な消費者としてとらえていることである。
 第三に、労働力政策として、産業・雇用構造の転換に対して資本の求める「生涯職業能力開発計画」であるとともに、この計画の一環としての高等教育機関の整備・再編をもくろむものである。
 第四に、現行の学校教育、社会教育体系を、横断的に再編・統合するものである。したがって、従来型の批判・抵抗が困難なことである。

4.「日本型生涯教育政策」をのりこえ、真の生涯学習社会を実現しよう

 それでは、われわれはいかにして「日本型生涯教育政策」をのりこえ、ユネスコの提唱した本来の生涯学習を実現させてゆけばよいのか。
 第―に、自民党政府・財界主導の「日本型生涯教育政策」と対決してゆく必要がある。そのためには、われわれがこれまで軽視してきた社会教育ヘ眼をむけ、特にその担い手である自治体労働者と積極的な交流・連携をはかり、さしあたって「生涯学習振興法案」の成立を阻止することが急務である。
 第二に、800万労働者の結集する「新連合」が、労働者の教育と文化についての権利要求運動を展開し、例えば教育休暇の制度化など具体的な政策提言を行なってゆく必要がある。その際、民間のピックユニオンによる資本の論理の持ちこみをチェックし学習権の論理を確立するために、日教組・自治労が主導権を発揮してゆくことが肝要である。
 第三に、神奈川においても、基本的人権としての生涯学習のあり方を高校教育との関連において本格的に検討してゆく必要がある。この問題をさけての、急減期対策はありえない。

    政・財界の目論む「生涯学習」

 今日全国的に生涯教育または生涯学習に関する各種提言、報告、政策などがしきりに宣伝されており、それらに関する講演やセミナーなどが盛んだが、このように活況を呈するようになった直接のきっかけは臨教審2次答申(1986.4.23)である。1987年に最終答申を発表してその役割を終えた臨教審に特徴的なことは、これまでの教育関係のどの審議会にも増して、労働、国土、経企などの経済関連省庁やその意を受けた研究機関などの思惑がその答申策定に決定的な力を与えたといわれることである。生涯教育や生涯学習という概念にいち早くとびついたのもそれらの省庁であったことは各答申や報告を読めば一目瞭然である。以下生涯教育または生涯学習の概念の我が国ヘの導入の経緯と上記経済関連省庁のそれへの関わりを見てみることにする。
 経済審議会人的能力開発研究委員会は1972年5月に「情報化社会における生涯教育」と題する報告を発表した。これは21世紀における我が国の経済発展を情報化社会とその労働政策の面から述べたものである。そこではこれまでの学校教育だけでは来るべきコンピュータ主導のソフト化した経済には対応できないとして、労働者は生涯にわたって自己の職業能力を開発することが必要だとされている。
 学校教育は現在でもなお教育的機能の中心としてその重要性を失わないが、その本来的な性格の故に、生涯教育の要請をすべて分担することは不可能である。すなわち、まず第1に時期的な問題であり(少なくとも従来の学校は、主として若い時期のもの)、次に制度的に整備されている反面柔軟性に欠けること(硬直性)、画一的になりがちなこと、知識中心であること、抽象性が強いこと、などのためにつねに変化しつつある社会的状況に必ずしも的確に適応できない。このため、学校以外の教育機会、すなわち社会教育、職業訓練、企業内教育・訓練、各種学校、マスコミ、各種セミナー等が改めて注目されつつある。これらの諸教育活動の総合的な視野からとらえ直すことが生涯教育の一つの視点である。(同報告 生涯教育事典巻1)
 学校教育、つまり公教育が社会の変化に対応できないとする主張は、社会の変化ヘの対応を最優先に置いた結果破綻せざるを得なかった本県の技術高校の教訓から我々は身をもって「否」と答えることができよう。また学校教育(公教育)が柔軟性を欠き、硬直的、画一的であるとの抑制は臨教審の主張と同一であるのみならず、昨年発表された本県の単位性高校に関わる後中検報告と全く同じトーンであることは注目に値する。即ち18年も前に経済審議会があくまで21世紀のコンピュータ社会における経済政策として報告した内容が、衣を替えて今日神奈川の公教育の欠陥とその打開策として後中検報告として再答場している点に、我々は本県の教育行政の主体性の実態を見ることができよう。
 21世紀における経済構造の変化に伴う就業構造について経済審議会経済構造調整特別部会報告(新前川レポート、1987年)は上記報告より具体的な数字をあげて次のように述べている。
 今後2000年にかけての就業構造の変化をみると、物財生産部門においては200万人程度の減少となるものの、ネットワーク部門及び知識・サービス生産部門においては各々30万人程度、680万人程度の増加が見込まれ、就業者全体としては500万人程度増加すると見込まれる。
 しかしながら、構造調整過程では、こうした需要の変化に対応しきれないために、産業間、職業間、年齢間、地域間など多様な分野で需給の不適合による失業が発生する可能性がある。(エコノミスト84年5月5日号)
 経済のソフト化に伴う労働力の需給のミスマッチを解消するためには労働力の企業間移動が必要であり、労働者はいつ首を切られても困らぬように日頃から自分の金で職業能力を磨いておけというもくであり、そのためにこそ生涯学習が必要であるということになる。

 国土庁関連

 国土庁は昨年「地域からみた生涯学習」と題する冊子を発行した。そこでは生涯学習に関する各自治体の具体的な取り組みが紹介されているが、自治体の生涯学習ヘの関わりは1987年に同庁により策定された第4次全国総合開発計画(四全総)に基くものである。そのうち就業構造に関するものでは、全国各地に大学等を拠点としてその周囲に各種教育関連施設を配置してハイテク企業都市の形成を計るテクノポリス構造があり、本県ではKIT(川崎工科大学)を核に地元の高校、とりわけ職業高校もそのような新産業都市の下部に組み込まれて、公教育以外の情報ネットワーク等の機能を持ったインテリジェントビルに改編することも可能であろう。この新タイプの産業都市の具体的なイメージは次のようである。
 KITは、地域社会、産業界、官界、学会、すなわち<地・官・産・学>の相互協力によって設立し、その創造の輪をつなぐ相互交流の場となる。また学生と教師の人的な交流の面ばかりでなく、他の国々の<地・官・産・学>とも密接に交流しあう国際的に開かれた大学とする。高度情報システムを駆使した多様な最先端の学習支援システムをもつこの大学は、市域に分散配置されたインテリジェント・プラザを核にして、研究所や公共施設と家庭や学校、事業所をつなぐ地域社会に開かれた大学であることは当然である。(月刊社会教育87年3月号)
 上記イメージの中のインテリジェントプラザに高度情報化された職業高校や公民館等が組み込まれることは十分あり得ることである。またKITをひとつのシステム総体としてとらえた場合その中心はKCC(川崎コミュニティカレッジ)であり、他の教育施設と連携して工業都市川崎をキャンパス都市ヘと転身させる核となるという。
 KCCは地域に開かれた市民の生涯教育の場であり、文化創造の拠点である。市民の知的欲求に応える文化・社会・科学・芸術を主体とする文化教育学部のほかに職業技術を教授する実務教育学部をもち、単なる聴講から、単位取得、学位取得などの多様な需要に応えられるようにする。(同) 経済企画庁関連の報告が主に21世紀の高度情報化社会に於る我が国の経済発展に必要な雇用政策の面から生涯教育や生涯学習の必要性を説いたのに対し、いうならハード面での施設創りのヴィジョンを示したのが四全総などに見られる国土庁の生涯学習ヘのかかわりである。KIT構想そのものは破綻したが、その中で見られたインテリジェントプラザ等の情報サービスは各自治体が県庁をキーステーションに、地元公民館や学校、図書館を連携させる形の生涯学習政策としてすでに実施されつつある。

 労働省関連

 生涯学習政策の中でも最も重要な柱とされるのが職業能力開発にかかわるものである。経済のソフト化(高度情報化)や転職に対応するために労働者は生涯にわたって職業能力を開発することが必要とされるが、これを職業訓練の面から支援しようとするのが労働省による職業能力開発基本計画(1985年告示)である。同計画によれば「ME化を中心とする技術革新の進展.経済のサービス化・ソフト化等産業・就業構造の変化、国際化の進展」や「職業能力方面での需給のミスマッチ」等に対応するために「企業内職業能力開発」、「公共職業訓練」等の充実、「労働者の自己啓発の促進」、「職業能力評価体制の整備」が必要とされる。これら考えの大部分が1年後の臨教審答申の中で、急激に変化する社会ヘの対応策として提言されてゆく。答申が奨励している職業高校に於る各種検定取得もこの基本計画の延長上にあるといえよう。また臨教審が「生涯学習社会」ヘの対応として重要視した職業教育の中でも特に企業におけるOFF・JT(労働現場を一定期間離れて企業外の職業訓練施設や機関で職業技術を習得し直すこと。off the job training)の必要性はすでに同基本計画で示されている。
 また、技術革新の進展等に伴い、OJTでは習得困難な知識・技術も多くなりOJTのみでは限界があるが、OFF・JTの機会は中小企業等の労働者を中心に不足しがちである。このような状況が今後とも続くとすれば、高度の技術的労働と単純労働ヘの技能のいわゆる二極分解が進んでいくおそれもある……特にOFF・JTについては、企業内では限界のある分野や実施困難な分野では、企業外の公共職業訓練施設、専修学校・各種学校、大学等の活用を進める必要がある。
 技術改革、国際化、労働者の自己啓発、検定、資格等の上記計画に見られる考えはそのまま臨教審を経て本県の後中検報告等に反映されている点に我々は再度注目する必要があろう。
 以上臨教審答申に到るまでの各省庁、特に経済関連省庁の動向を各報告等によって追ってみた。単位制高校や新しいタイプの高校などを生む原動力となっている現在の公教育ヘの批判、その打開策の真の発端が、教育とは程遠い経済的要請に基いていることは警戒を要する。
 生涯学習社会の名の元に各種成人教育、サークル、地域文化活動が活況を呈することは、それ自体で見れば非常に喜ばしいことである。たとえゲートボール色に塗り込められているとはいえ高齢者が余暇にスポーツや文化を楽しむ姿はほほえましい。しかしながら今日のように生涯学習が宣伝されるきっかけともいうべき経済的要因を我々は見落してはなるまい。経済の法則は利潤追求にあることは自明の理であり、生涯学習社会の名の元に、本来利潤追求とは異質であるはずの公教育、とりわけ職業科を中心とする後期中等教育が経済の法則に組み敷かれようとしている現状に我々は危惧の念を持たざるを得ない。また本県の教育行政の主体性のあり方も今後多いに問われるだろう。

 おわりに

 最後に、臨教審とは直接関連はないが、21世紀を展望した経済政策の本音を見てみることにする。
 “企業の要員合理化は、必然的に少数精鋭化を指向する。少数精鋭化のために不必要な人材は排除され、またポストに対する個人の適否がきびしく問われることになる………少数精鋭の指向は贅肉をそぎおとすことを要求する。集団経営の中で蔭に隠れていたブラ下りの人材は勿論のこと、企業の役割期待に応じきれない人材などを能力主義のもとに見つけ出し、排除することが必要となる。”(経済ソフト化と労働市場、大蔵省ソフトノミックスプロジェクト報告)
 企業の論理を極めて直載に示したこの報告と同じトーンが、臨教審答申策定に力があったといわれる経済関連省庁の各報告の基調にあることは(たとえこれほどむき出しではなくとも)当然と思われる。それが、各個人ひとりひとりの全人的開花を目ざす教育、とりわけ公教育の理念とは全く異質なものであることに我々は改めて警戒感を強めねばなるまい。